毎日毎日,かわりばえのない仕事を繰り返していると,たまには遠くへ行きたくなるものだ.この際,「どこへ」というのは問題ではない.日常生活を離れた「どこかへ」行くこと,すなわち旅行自体が目的なのだから.
とりあえずの目的地を黒部ダムに定め,私は,徳島発名古屋行きの夜行バスに乗り込んだ.夜行バスに乗るのは,一年ぶりくらいになる.やはり寝心地は悪い.寝返りを打てないことが意外にこたえるのだなと,いまさらながら考える.
寝つきのいい私でも,いつものようにぐっすり熟睡というわけにはいかず,リアルな夢をたくさん見る.地震だ,と思って目を覚ますと,信号停止していたバスがただ動き出しただけということもあった.
「揺れている」ことに体が慣れてしまうので,今度は,バスが止まっているせいで目が覚める.ずいぶん長い間,おなじ場所に止まっているように思う.
カーテンの端をそっとめくると,外はもう明るくなりかけていた.赤い煉瓦造りの立派な建物が見える.その建物の前に何か書いてあるのだが,薄暗いのと私の目が悪いせいでよく見えない.「業」や「技」などという字と,「TOYOTA」という文字だけが,かろうじてわかった.
バスの運転手がふたり,外でなにやら喋っている.おそらく早く着きすぎたので,時間待ちをしているのだろう.
やがてバスが再び動き出した.その瞬間,「産業技術会館」という字がようやく読めた.
トヨタの産業技術会館からは名古屋駅はすぐ近くだった.
やはり早朝であるから,店はすべて閉まっている.空腹を感じつつも,黒部ダムへ向かう電車を探すため,時刻表をめくる.
名古屋から黒部ダムへ行くためには,信濃大町というところに行かなければならないはずなのだが,いったい何線に乗ればいいのだろう.
調べていると,まずは中央本線の特急しなのに乗って,松本まで行くということが判明した.
松本.
どこかで聞いた地名だな,と首をかしげる.しかし考えるまでもなかった.「松本サリン事件」だ.こんなもので覚えているなんて,嫌なものだ.もっとほかに,いいものがたくさんあるのだろうに.
一人旅をしていると,何か書きたくなる.つまり,話相手を欲しているということだろう.話相手のかわりがメモ帳というわけだ.
おなじ車両に乗っている乗客は,登山の格好をしている人々が多い.今日は天気が悪そうなのに大丈夫だろうか.
通路を挟んだ席に座っている男女が,なにやら楽しげに話している.どうやらふたりとも一人旅同士らしい.聞くともなしに聞いていると,女性のほうが青春18きっぷの正しい活用法を男性に講義しているようだった.18きっぷは私もよく使うのだが,今回は特急を使うのであまりメリットはない.
電車に揺られ,少しうとうとして目を覚ますと,景色が一変していた.
本格的に雨が降っており,雨のむこうにはあざやかな緑色の山並が見える.電車は川に沿って走っており,その川には石造りの綺麗な橋がかかっていた.川原に転がる石は丸味をおびているが,異様なほど大きい.
電車も少し混んできていて,私の隣にも,着物姿の女の人が座っている.彼女はこれから,長野へ向かうのだそうだ.
なかなかサービス精神旺盛な路線で,車掌がしばしば,車窓からの見どころをアナウンスしてくれる.途中,浦島太郎が余生を過ごしたと伝えられる川原にさしかかるが,アナウンスが流れた直後に後ろに飛び去ってしまい,本当に一瞬しか見ることができなかった.
「まつもと〜〜〜まつもと〜〜〜」
まるで歌っているかのようにも思える,ふしのついた女性のアナウンスが松本駅到着を告げる.ここで大糸線に乗り換えて,信濃大町へ向かう.
いったんやんでいた雨が,再び降り始めてきた.ひとしきり激しく降ってから,また止む.私は心配するのを止めた.山の天気は,変わりやすいものなのだ.
乗客は,やはり登山客が多い.こんな天気で大丈夫なのだろうかと,他人事ながら心配になる.ちょうど隣に座った男性が,連れの女性ふたりに登山のレクチャーをしていた.彼らはこれから,白馬のほうに行くらしい.
このあたりの家屋は,屋根に取っ手がついているものが多い.雪止めのためのものなのだろうか.
信濃大町からは,バスである.
緑一色の中,曲がりくねって伸びるアスファルトの道.山間の道などどこでも同じようなものだとは思うものの,その時私は,北海道の支笏湖に行ったときのことを思い出していた.それから,軽井沢から横川までの碓氷峠もこんな感じだったように思う.
緑が切れると,道のすぐ脇に,渓谷というほどではない,川の流れが顔をのぞかせる.
「第○ポイントスノーシェッド」と名前のついた屋根が時々道の上にかかっている.「ロックシェッド」という名前のものもある.つまり雪よけ,落石よけということになるのだろう.
扇沢から黒部ダムまでは,トロリーバスである.バスなのだが,電車のように,上に張ってある架線から電気を取り入れて走る.走る場所がほとんどトンネルの中だから,排気ガスが出ないようにトロリーバスにしているのだそうだ.
湿気のせいだろうか.暗いトンネルの中はひんやりして,うっすらと靄がかかったように白い.
黒部ダム建設のための,資材を運ぶ通路として作られたトンネルである.途中,「破砕帯」という地下水と土砂の層に悩まされ,完成が危ぶまれたがなんとかやり遂げ,黒部ダム完成の道を作ったのだという.
今はそれもコンクリートでしっかり固められ,トンネルの中の「破砕帯」という表示のみがその場所を伝えている.
下の写真は,到着駅の黒部ダムで「お客さん,ゲート閉めますよ」と職員に急かされつつ撮影したものである.
黒部ダム駅に到着してまずやることは,トンネルの中の長い長い階段を黙々と上りつづけることである.いつもより少し疲れるような気がするのは,気圧のせいか,それともただの運動不足だろうか.
中学生くらいと思われる少年たちが三人,階段の上がり口でジャンケンをはじめた.
「ち・よ・こ・れ・い・と!」
「ぱ・い・な・つ・ぷ・る!」
三人は,とてもなつかしい遊びをやりつつ階段を駆け上ってゆく.こういう単純な遊びははやりすたりがないのだろうか.
階段を登った先には,月並みな表現だが,雄大なパノラマが広がっていた.
右手には,まるで垂直にそびえたつほどに思われる巨大な山.左に向かうと,眼下には観光放水実施中の黒部ダム.
天気が悪いせいで,残念ながら,パンフレットでよく見るような虹は見えない.
景色を見ながら展望所から黒部ダムまで,また上った高さとほぼおなじ高さを降りてゆく.しかし雄大な景色に目を奪われていると足元がおろそかになる.
少し階段を降りては立ち止まってあたりを見回し,また少し階段を降りる.そんなことを繰り返しながら,ゆっくりゆっくりと降りてくる.
途中には,錆びついた当時の機材等も置いてあった.ダムのそばには記念室もあり,主にトンネル工事について,当時の工事の大変さを語っている.
近くまで来ると,放水の迫力がますます迫ってくる.また,上流側は満々と水をたたえた黒部湖が山々の間をどこまでも広がっていた.
黒部ダムは,巨大だった.日本最大だという話は,知識としては知っていたが,実際これを目の当たりにすると,圧倒されてしまう.
「よくこんなもの作ったなあ」
そういう気持ちがこみ上げてくる.
不幸にも,というべきか.それとも,やはり,というべきか.雨が本格的になってきた.デジカメを濡らさないように写真を撮るのはなかなか難しい.
ダムの上から真下を見下ろしたりしつつ対岸に渡ると,そこにはトンネルがあり,黒部湖駅があった.ケーブルカーの発着駅である.黒部平行きだ.
そこは素通りし,遊覧船「ガルベ」に乗るため,のりばに向かう.
しかし,そこからがまた一苦労だった.遊覧船に乗るためには,道から,ダム湖畔まで,延々と階段を降りていかなければならないのだ.この階段数は水位によって変動するらしいが,今の水位は最低ラインなのである.
降りる途中,考えまいとは思ってもつい頭に浮かんでしまうことがある.
「これだけ下りるってことは,あとでまた,これだけ上らないといけないってこと・・・?」
まばらな乗客を乗せて,「ガルベ」は走り出した.アナウンスによると,黒部湖を6km上流までさかのぼるそうだ.
黒部湖は,まるで山々の中の裂け目のようだった.とはいえ,黒部湖は,標高自体はかなり高いのだ.付近の山々がどれだけ高いかということである.標高3000メートル近くの山がごろごろしているのだから.
山々を眺めているうちに,遊覧船は,折り返し地点の平の小屋付近まで到着し,そこでぐるりと回って戻ってきた.
え? これで終わり?
正直なところ,そう思った.しかし,これはもしかすると,雨のせいで気がそがれていたためかもしれない.
船から下りると,当然ながらあの長い階段を延々と上がらねばならない.
「今日,水位低いんですか?」 と,操船をしていたおじさんに聞いてみる.
「毎年今ごろはこんなものですよ」 という答えが返ってきた.まさか,毎日毎日放水しているから水位が下がっている,というわけではないだろうが.
遊覧船のすぐそばに,吊り橋がある.今日の宿は,この吊り橋の先だ.しかしこの吊り橋,はるか下に黒部湖面があり,かなり恐ろしいものである.
吊り橋の上で立ち止まると,明らかに橋が揺れているのがわかるのである.
吊り橋を渡って,遊歩道を歩いていくが,歩けども歩けども宿は見えてこない.左手には黒部湖,右手には山,それらしい建物がまったく見当たらないのだ.
さまざまな植物があるといっても,所詮名前がわからない.鳥がいるといってもこの雨ではとてもでてこないだろうし.動くものは,雨につられたか,人の手のひらほどの大きさの蛙がぺったりぺったりと跳ね回っているだけである.
ただ,緑が雨に濡れて,とても生き生きしていた.